◇ 歌舞 ◇ 犀遠(さいおん)編 02
「だから・・・」
顔はさらに歪んで、目には早くも涙が浮かんできた。
「そんなふうに、簡単に約束したら駄目なんだって、わたくしは言ったの・・・!!」
「ま、真名璃・・・!!」
この大人びた幼い少女を、自分は一度として慰められたことなど、ないのだ。
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ・・・!!」
泣きそうなのは真名璃の方だというのに・・・。
逆に自分がそうであるかのように、戸惑い動転してしまう。
「ひっく・・・ひっく・・・っく・・・・・・ぅ・・・・・・っ」
うわぁーん。
真名璃は糸が切れた人形みたいに泣き出した。
それはずっと我慢していたように、ひたすらに。ただ、無心に。
自分の服を掴んで、大泣きする小さな少女。
「ど、どうしたの、真名璃? 兄さまは今日はもう、ずっと真名璃と一緒だよ? どこにも行かないよ?」
馬鹿のように下らない慰めを口にするばかりだった。
「ち・・・違うの・・・。そうじゃないのぉ・・・っ、兄さまは宴に出るの。知ってるのっ・・・ぅええっ」
「ま、真名璃、居るんだよ? 今夜は真名璃と居ることに決めたんだってば・・・!!」
「違うの違うのっ・・・!! 兄さまは行くの、行っちゃうのぉ・・・知ってるんだからぁ・・・ぁぁんっく・・・」
「真名璃・・・!? 何言ってるんだい? 兄さまは今日は・・・」
ああんっ、うあああぁ・・・ぁんっ・・・・・・。
真名璃の声が、道化じみた弁解を掻き消した。
「真名璃・・・お願いだから・・・泣き止んで・・・くれない・・・かなぁ・・・」
弱りきって自分の方が泣き出しそうになってくる。
・・・情けない・・・。いつも自分でそう思うけど・・・けど、真名璃の涙には勝てないから・・・。
「うっく・・・痛いぃ・・・兄さまぁ・・・咽喉がっ、痛くなってきたよう・・・」
「えっ?」
真名璃がひどくしゃくりあげる。小さな体が痙攣するようにびくびく動く。
「声が・・・出ない・・・出ないよぉ・・・っ。痛いよ、痛いっ・・・っく、兄さま、痛いよぉぉうっ・・・声が、出なくなったのぉ・・・っ!!」
「真名璃、大丈夫だから・・・。少し咽喉が張れただけだよ、きっと・・・!!」
「痛い、痛い。咽喉が痛いよぉう。声が、出ないよおおぉっぅ・・・!!」
「だ、大丈夫だよ、真名璃・・・。声は、出なくなってはいないから・・・」
「声がぁ・・・」
真名璃の声は、確かに少し掠れていたが、それだけだった。
「声が、出ないよぅ・・・っ」
本当に、その他は、いつもと変わりはなかったのだ。
しかし、次の瞬間。
「兄さまみたいな・・・綺麗な声が、出ないよぉっ・・・!!」
自分の身体が凍り付くのを感じた。
「痛いのっ!! 咽喉が痛くて声が出ないのっ・・・兄さまみたいな、綺麗な声がっ・・・!!」
「ま、真名璃・・・」
からからに干乾びた咽喉が、ひくついて綺麗に声が出ない。
かさかさに乾いた唇を必死で潤して言葉を紡ごうとするが、それも上手くいかない。
焦っているのだろうか、唇がただ、わなないた。
「嫌だ、嫌だ。本当は兄さま行っちゃ嫌だぁぁ・・・っ!!」
「真名璃、行かないから」
「でも、困らせるのも嫌なのぉっ・・・ひっく・・・」
上手く言葉が出ない以上に、真名璃に何を言っていいのか全く分からなくなっていた。
唇が咽喉がちゃんと言葉を発せる状態だったのなら、自分が何を口走っていたかなんて、想像も付かない。
ただ、何か言わなくては、と思った・・・。
「うぇぇっ・・・っ兄さまぁっ・・・!!」
力を込める小さな手が、初めて本心を晒したように思えた。
"兄さまみたいな綺麗な声が出ない"・・・。
それは、思いもよらぬことだった。
予想もしない言葉にみっともなくも動揺を隠せないでいた。
真名璃が泣いていてくれて良かったと、初めて思った。
どくどくと大袈裟な音を立てて心臓から体中に血が巡っていく。凄まじい勢いで、駆け巡っていく・・・。
歌うこと。
それに執着しなかったと言えば、それは嘘になる。
真名璃の心が『兄さま』に会うよりも『歌』に向けられるのが、少しだけ恐ろしいと思ったのだ。
だって、宴会には偉い方々が多くお見えになる。
誘われれば断れるはずもなく、特に女人は歌以外を求められることもしばしばという。
だからだ。
・・・いや、違う、そうじゃない・・・。
違うだろう・・・?
もちろん、それもあるけれど、それよりも、もっと大事な、重要な事があるだろう・・・?
何か、口に出して言い様のない、汚いおどろおどろしい感情が、己の中に・・・ある。
言葉にならないそれは、いったい何と言えばいいのか分からない。
ただ、分かるのは、それが持ってはならない感情だという事。
真名璃の『兄さま』として。
醜い感情を直視できなかった。眼を逸らすことは簡単で、でもそうすると、それはより深く侵食するように纏わりついてきて・・・。
気持ちが悪くなった。
「真名璃・・・。大丈夫・・・真名璃の声は、ちゃんと綺麗だよ・・・?」
「嘘・・・。・・・嘘なんか付かないでよぉ、兄さまぁっ・・・!!」
「嘘じゃないよ」
「兄さまは、嘘つきだもの・・・!! だから信じられないわっ!!」
「本当だってば・・・。真名璃の声、とっても綺麗だよ。兄さまは自分の声より、真名璃の声の方が好きなんだけどな・・・」
「嘘!! じゃあ、何で他の人たちは兄さまが好きなのっ!?」
「真名璃・・・。他の人から好かれるからと言って、兄さまの声がそんなに綺麗なわけじゃない。
兄さまはね・・・」
男である自分の声は・・・高音の寿命は、もうすぐだと知っている。言われている。
「兄さまは、ただ少し珍しいだけだよ・・・。すぐに皆、真名璃の素晴らしさに気づく。その時、兄さまは忘れられてるよ・・・」
「兄さまを? ほら・・・やっぱり兄さまは嘘付きだ・・・」
真名璃は少し安心したように体の力を抜いた。
真名璃・・・。
さっき自分が言った事は、決して嘘ではない。栄光とは長続きしないのだ。すぐに終わる。すぐに消え去るものなのだ。
どんなに素晴らしい歌を歌ったって、どんなに素晴らしいと称えられたって、そんなもの幻だ。
すぐに消える・・・ひと時の夢だ。
持てはやされる。
呼ばれる。
気に入られる・・・。
期限付きだからこそ、それらは一瞬の眩しい輝きを宿す。
消え去る前の、ほんの一瞬の光。
それが芸人の道であろう。
男の歌歌いなど、幼い少年期のみの活躍と言えるのに。
それを知らない、幼い妹。可愛らしい真名璃。
無知がゆえに、永遠を信じる。
『すごい兄さま』を・・・無邪気に信じる・・・。
目を逸らしたがっているのは、果たして誰なのか。
落ち着いて、眠りに落ちた真名璃をそっと抱きかかえる。
ひどく、疲れていた。
そのまま、暖かい真名璃の温もりにつられるようにまどろんでいった・・・。
暗闇の中にいた。
周りは轟々と渦巻く言葉の世界だった。
いろんな事が聞こえて、そのまま記憶に残らず去って行く・・・。
そんな世界だった。
皇帝様がいた。
ひとりで、周りの何倍もあるような大人たちの中に一人、立っていた。
見上げるようなその顔は、毅然としていて強さを表していた。
しかし、それがただの強がりであることなど、彼を知っているものが見れば、一目瞭然の顔だった。
怖い。
嫌だ。
どうして。
思い通りになるものか。
ここは。
ここは僕の王国なんだぞ。
必死に虚勢を張る皇帝に対し、周りの大人たちはただ威圧をかけるかのように巨大化していく。
嫌だ。
もうやりたくない。
遊びたい。
面白くないんだ。
だって、ほら見てよ、皆遊んでる。
遊んでないのは僕だけじゃないか。
嫌だ。
嫌だよ。
僕も遊ぶんだ。
それをずっと見ていた気がした。
助けることも思いつかずに。
驚きのまま。ただ、その場に立っている自分がいた。
周りは薄暗い宮廷。
小さな皇帝様は、大きな椅子に埋もれるようにして座っている。
精一杯の虚勢。
大人たちの暗くて大きな影。
息苦しそうな服。
大き過ぎて重そうな冠。
そのどれもが、大人用のものだった。
「おお、いかん。また皇帝様が発作を起こされましたぞ」
「そりゃいかん。皇帝様、しっかりしてくださいませ。ほれ、お薬ですぞ」
「癇癪という病気は、まったく治らないものですな」
「本当に。お薬も一時しか利かないことだし」
「これでこの国は大丈夫なんでしょうかな」
「ええ、本当に・・・」
ざわめきは、大人のひそひそ声だった。
上品そうな袖に隠して汚い言葉を吐く。
ひっそりと。こっそりと。あちらこちらで。
それらは、皇帝様の所に形のないものとして届き、傷つける。
痛い、痛い。煩い煩い、喋るな。
皇帝様は頭を押さえて、喚く。
王冠が落ちた。
「おお、いけませんな。大事な大事な王の証が落ちましたぞ」
「やはり皇帝様には大き過ぎましたかな?」
「なあに、じきになれるでしょう。ほら、これをお被りください。王の証ですぞ」
嫌だ、嫌だ。重い、それはとっても重いんだ。頭が痛くなる。
「我が儘を言ってはなりませんぞ」
「なにせ」
「あなたは皇帝なのですから・・・」
繰り返される言葉。
皇帝皇帝皇帝・・・。
ただ呆然と見ていた。幼い子供への恐ろしいまでの意志の無視を。
それでも子供は懸命に逆らい続ける。
その皇帝と目が合った。
「おい。そこの歌歌い」
体が少しだけ震えた。
「こっちへ来い」
命令されるままに足が進んだ。
これは皇帝様が中心なのだ。
「ん・・・? その手を見せてみろ」
両手を、差し出す。
「違う、指だ、指」
ぐいと引かれて、少したたらを踏む。
「おかしいな・・・」
がり。
皇帝様の声が聞こえた瞬間、何かに噛まれていた。
がりり。
痛い・・・。
「お前、この指はどうした? どこで怪我したんだ?」
皇帝様の声が、怪訝そうに響いた。
「お前は嘘つきだろう・・・?」
がり。
「・・・っ!!」
痛みが沁みてきたと思えば、目の前にひとりの少女。真名璃がいた。
夢を見ていたのを自覚して、奇妙な感覚に頭が少しぼおっとする。
真名璃を見ると、夢から覚めた実感が湧いて、体から変な緊張が抜けた。
「・・・痛いよ、真名璃」
きゅっと真名璃の眉が吊り上がる。
「離してくれないかな・・・?」
真名璃はかんかんに怒っていて、ちゃんと約束通りに一緒に居た事を疑い、ついで獣みたいに怒り、とても恐ろしかった。
そして、今日は来れないことを言い、納得させて歌の稽古に送り出した。
一緒に居たのは真実だけど、その大半を喧嘩と眠りに取られていたので、真名璃は大層ご立腹の様子だった。
でも、なんまり寂しそうだったから、つい、宴の途中で抜け出してくることを約束してしまった。
真名璃はとても喜んでくれて、先刻の機嫌の悪さも吹き飛んでしまった。
頬を染めて嬉しい、有難う兄さまと抱きついてくる真名璃は、とても可愛らしかった。
つかの間の幸せを味わった後、笑顔で真名璃を送り出した後、溜息をついて、こちらもご立腹のご様子のはずの皇帝様に会いにいった。
少し、足が重かった・・・。
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